(^^)こんにちは。母の食事の量が減って睡眠時間が長くなり、気がつけばベッドで横になっているといった感じの日々が多くなった。同じような味のメニューに飽きてるのかもしれないと、レトルトのカレーを少し出すと一気に食べる。しかし、やはりおかずは手付かず。
お天気が良いと饒舌で、あることないことヘルパーの方に話しまくるので大丈夫と思っているが・・・
そんなある日の夜遅く、義姉が大きな花束を持ってやって来た。
「おかあ〜さん! これどうぞ!ありがとうございました。」
母の頭はもう半分眠っている状態で何が何やら?!?!
私も母への遅い誕生日プレゼントかな?!と。
それは義姉が退職お祝いで頂いた花束だった。あまりにも大きくパワフルな花束だったため、「分けて、少しいただこうかしら」と私が言うと、
「いいの。これからも(お花)もらうと思うし、これまで勤められたのはお母さんのおかげ。(*^^)v だから1番にお母さんにと思っていたの」と。
聞いた私がジーンとする話だったが、母はその会話は全く耳に入ってない様子。あまりの見事さに「わーすごいねえ 綺麗〜きれい」と歓声をあげ、香りが部屋中にただようハッピーな夜になった。義姉はお酒が入っているようだったから、明日になって花束がない!と探さないだろうか…と、ちょっと心配にもなった小姑だった(苦笑)
翌日の朝、ヘルパーの方が飾ってある大きな花束を見て「わーすごい!綺麗ですね」と母に話しかける声が聞こえた。すると母は「りえちゃんがお別れ会でもらった花」、そうきたか!と私は母の見事な変換能力に笑ってしまった。!(^^)!そこには義姉も退職の話もこれっぽっちも出てこないんだから。(*_*;
これが認知症と言うもの。かと思えば夕方は義姉の名前が出てきて花束の説明もできちゃう。また別の日は「私の誕生日お祝い」となっているし・・(*_*;
義姉が言った感謝の言葉を感慨深く思い返した。産前産後3ヶ月の休みで仕事復帰し、赤ちゃんを保育所に預けて出勤するのは後ろ髪をひかれる思いだったに違いない。3人の育児をしながら働き続け、産休中に猛勉強して一級建築士資格をとる頑張りも、ご飯も炊飯器で炊けない夫(母の息子)のそばで勤務し続けたことなど賞賛すべきと心底思っている。
保育園で熱が出た、怪我をした、何かあればすぐに母が自転車でお迎えに行かなければならず、毎日のお迎えと育児・ご飯洗濯etc大忙しだった。当時私は東京で働いていて、喘息で電話で話せないほど弱っていっているとわかった。孫3人と2人の大きな子供、合計5人の子供と頑固な夫の世話に追われているように映っていたから無理もないと思った。
時々母を上京させて家事と育児、夫の世話から解放させることが娘の私の唯一できることだった。ある時、保育園から帰宅途中に大発作が起き、救急車を呼んでもらうことさえできず、自転車には幼児が乗ったままで死ぬかもしれないと思ったと恐怖を初めて吐露した。聞かされたこちらも喘息の発作が相当ひどいことを知って愕然とした。それなのに「育児家事、ギブアップすれば?〜」と、できそうもないことを言って困惑させていたような・・・(*_*;
更年期から重度の喘息を患い長年ステロイドとスプレーの薬漬けだった母が現在生きてるのはパラサイトの娘がいるからであり、孫は手がかからなくなっても私の状態は下降線なので一緒に生きてくれているのだ。ありがたいと思っている。
喘息と慢性関節リュウマチ、母も私も副腎が弱いのだろう。(長年のタンパク質不足とビタミンC不足か)
2019年、おかあちゃまは喘息の“ぜ”の字も出ない。ステロイドとは、とっくにおさらばしている。
私が帰郷する際に古民家改築をして、一緒に暮らし始めてから母の重度喘息が治ったのだ。
つづきの話は次回以降に!
住宅改修ができますが、金額制限もあり、介護度認定の変更と縛り条件があるため、どのタイミングで制度利用するかは知識を得て慎重に。今後も「えんかく介護」情報を公開・応援します!ご訪問ありがとうございます。
人気ブログランキングブログランキングに参加しています。ポチっ頂けると励みになります。
今後ともよろしくお願いいたします。Rie