2月 バレンタインデーの日に転倒。
3月には、また元気に歩けるようになって、みんな安心していたら、 3月の末、声かけをして一時間半の間に眠るように旅立ちました。
生前のご芳志に心より御礼申し上げます
広島の桜は満開
庭の花も、黄色いレンギョウ、ピンクの花豆王、白い利休梅が見事に咲き誇って今生での労いと新たな旅立ちを祝福しているかのようでした。
私はこの日が来ることを日々覚悟していたせいか、比較的静かに受け止めることができたように思います。
母の遺言は、「家の座敷で葬式をしてほしい」 でした。
「もしも・・・死んだらお葬式はどうしたい?」
さりげなく聞いても即答しないため、手を替え品を替えじゃないけど切り口を変えて、諦めずに本心を聞き出すことができてよかったと、今となっては思います。
母が「自宅で」とすぐに言えなかった理由は、 兄と義姉、家族が法事や家の事をこれまでやって来なかったことをよく知っていたから、大変かな?って気持ちがあったのかもしれません。
母自身が本家の長男に嫁いで習わしを教えながら伝承していくことを、ある時から諦めていたので、「家で昔ながらのお葬式」などとは簡単には言えんわー (広島弁(*^^)))だったはずです。
広島に帰郷して二十年ちょっと。
私の役割は、ひどい喘息の母を元気にすること、そしてもう一つ、母が共働きの長男に依存することなく、高齢者と障害者である私たちが自立し、猫と花と一緒に楽しい生活ができるようにすることでした。
戦争とおしんのような苦労経験がある昭和一桁生まれの母。兄夫婦や私は高度経済成長の中で成長してきているため、時代が作り出す見解の相違は大きく、娘の私が兄夫婦の代弁者となって「調整する」お役目が多かった気がします。
話は戻って、兄家族と私は、てっきり近くの葬儀社で式を執り行うものと思っていました。でも念のため母に聞いておこうと思ったのです。
私「(母の)お姉さんの葬儀もxxx社 でやったけど覚えてる?」
母「・・・」
私「この辺の人はみんなxxx社でやってるけど、お母さんはどうしたらいい?」
長い沈黙の後、
母「座敷がいい」
正直、私は母が家で葬儀をしたいと言うとは思ってもいなかったので、@@すぐに言葉が出なかったです(笑
かなり年代いっている古民家は、確かに8畳の部屋が二つ続いて、6畳の部屋も続いているから、家で昔のように見送りできます。
コロナ禍ということもあり、家族と近くの親戚二家族だけの家族葬にいたしました。
兄家族と私は、在宅介護しながら最後まで歩き、不満も言わずヘルパーさんたちに感謝の言葉を忘れない姿をよく記憶して、眠ってる間に古くなった肉体をサッと離れた母を半分羨ましく思いながら「ありがとう」 「 よく行ってね」と静かに送ることができました。
父も最後は在宅介護、母のときも在宅介護を選び、介護マネージメントスキルを父の時よりもかなり上げたせいか、後悔もなく涙もなく、 尊厳を守り抜いた喜びの方が大きいです。
次回は、亡くなった後、諸々の手続き変更の嵐にうんざりしていることなどを…>0<