日記

41年目の鎮魂8月12日――高浜機長の笑顔を、私は忘れない

1985年8月12日――私が忘れることのできない日

1985年8月12日。
日本航空123便が御巣鷹の尾根に墜落した、忘れてはならない日です。

乗客509人、乗員15人。
524人が搭乗し、520人の尊い命が失われました。生存者は4人でした。早く救助できたらもっと多くの人が救われたのではないか、と当時も今も強く思っています。

520柱の御霊が安らかに眠られることを心からお祈り申し上げます。

突然の訃報にご遺族やご友人の方々の悲しみ、苦しみ、何十年も経った今も言葉が見つかりません。

あの日から41年

2026年の本日、あの日から41年が経ちました。

この日のことを、私は一度も忘れたことはありません。当時、私はJAL の乗務員だったこと、自分も呼び出されて仕事をしていたかもしれない。日本航空の社員としての想いもあって、123便のことは封印してきたように思います。

これまでブログなど公の場所に書くことが、なかなかできませんでした。

今年は、私自身の記憶として残しておきたいと思いました。

「レーダーから消えた」JA123便

あの日は、とてもむし暑い日でした。

私は、以前住んでいた部屋の向かいにある小さなお寿司屋さんにいました。

カウンターは5席ほど。
正面には、小さなテレビが置かれていて、突然、そのテレビにニュース速報の文字が流れました。

正確な文章までは覚えていませんが、「日本航空の旅客機がレーダーから消えた」という内容だったと思います。

大阪行き、お盆、満席、レーダーから消えるという表現が墜落を意味することを直感的に察知しながらも、「間違いであって欲しい」という思いと、しかし、何かの事故だとしても多くの人が助かると思う気持ちでした。

私は急いでタクシーに乗り、引っ越したばかりの目黒の部屋へ帰りました。

それから一晩中、テレビをつけたまま、報道を見続けました。

眠れるはずもありません。

ただ、ただ、一刻も早く救助に向かってほしい。

そのことだけを願いながら、次々と発表される情報を待っていました。

墜落したと伝えられた時刻は、午後6時56分ごろ。

「どうして、すぐに現場へ行けないのだろう」
「なぜ、正確な場所が分からないのだろう」

当時の私は、真夜中すぎの特別報道を見ながら、強い焦りと苛立ちを感じていました。

現場の状況や、夜間の山岳救助がどれほど困難なものであったのか。そのすべてを、当時の私が理解していたわけではなかったからです。

それでもテレビ画面の前では、

「どうか早く」
「一人でも多く助けて」
「今ならまだ生きてる人がいる」

と願うことしかできませんでした。

日本の救助技術が夜間は難しいのか、ライトがついたものがないのか、場所が特定できても、一般人に来られたら困るから正しい位置関係を報道できないのだろうか・・・とか思っていたと思います。

朝まで正確な場所が発表されなかったことが、多くの人に疑問を投げかけ憶測を生むことになったのも事実です。

何度も見ていた夢

この事故が、私にとって恐ろしかったのには、もう一つ理由があります。

私は当時ベジタリアンになり、卵やお肉を食べなくなって穏やかというより神経質でした。タンパク質不足による典型的な過敏症にになっていました。

123便の事故が起きる前から、下の景色が見える大きな乗り物・鳥に乗っているような夢を何度も見ていました。彼にも誰にも話せない強迫観念の塊のような夢。

眼下に木々と山が見え、目の前にその山が迫ってくる。

怖くなって目を覚ますのですが、また同じような夢を見る。

そんな個人的な夢の経験から、123便に乗っていた皆さんが、不安定な機体の中でどれほど怖かったことでしょう。想像しかできないのですが、落ちる恐怖の夢を見続けていたので寄り添いたい思いでいました。

もちろん、本当の恐怖は、機内にいた方々にしか分かりません。

それでも私は、緑の山に近づくあの夢の光景と重ねずにはいられなかったのです。

高浜機長の笑顔

そして、乗員のお名前が発表された時、ご一緒したことがある方のお名前を見つけた時はやはりショックでした。その中で私は高浜雅己機長のお名前を見つけました。

その瞬間、成田空港で行われたブリーフィングの時の、高浜機長の笑顔がはっきりとよみがえりました。

なぜ、機長のお名前と笑顔を、それほど鮮明に覚えていたのか。

そこには、私が客室乗務員としてフライトを始めた頃の、もう一つの思い出がありました。

新人の頃、私はDC-8という航空機でマニラへ向かうフライトに乗務しました。個人的に一番好きだった優雅なフォルムのDC-8。その時の機長も、同じ「高浜」さんという苗字でした。

そのフライトには、今も忘れられない思い出があります。

乗員の人数が少ないこともあり、みんなでの食事も和気あいあいとしたコミュニケーション。

2026年の今では、公にできないような写真をマニラ出発前に客室乗務員全員で撮っていただいたのです。40年前は、コックピットにも入れましたし、空港も安全な警備はもちろん厳しかったですが、今ほどではなかったのです。

それから年月がたち、別のフライトの乗務前に、ブリーフィング資料で再び「高浜」というお名前を見つけました。

「また、あの高浜機長とご一緒できるのかしら」

「ボーイング747に変わられた?」

そう思いながらブリーフィングがある階上へ向かいましたが、同じ名字の別の方でした。

それが、123便の高浜機長でした。

コックピットクルーとのブリーフィングは、新人だけでなく客室乗務員にとっても緊張する時間でもあります。何かあった時の緊急避難などの確認をする時間だからです。

けれど、高浜機長はとても温厚そうな笑顔のすてきな方でした。

その笑顔を見て、私はほっとしたのだと思います。

「(国際線の国内フライト)短いフライトですがよろしくお願いします」と話されて全クルーはオペレーションセンターを出発しました。

お客様とも乗員同士も一期一会の仕事でした。国際線の乗務員が国内線の仕事をする時は、500名のお客様をお迎えしてお見送りすることを3度を行うため、国際線の片道乗務が終わってホテルに行くのとは違いました。

ほんの短い時間の出会いであっても、その人の表情や声が、何十年たっても心に残ることがあります。高浜という名前を勝手に勘違いして「あっ 違う高浜機長だ」となった小さな小さな個人的な記憶。

しかし、高浜機長のあの穏やかな笑顔を、私は今も忘れることができません。41年目の今日も再び思い出しました。

これまでコックピット・ボイスレコーダーを通して伝わってくるのは、最後の瞬間まで機体を立て直し、乗客・乗員全員の命を守ろうと懸命に闘い続けた、運航乗務員の姿です。

どれほど困難な状況であっても諦めず、持てる力のすべてを尽くされた高浜機長、副操縦士、航空機関士。そして、恐怖の中でも乗客に寄り添い、使命を果たそうとされた客室乗務員の皆さまと、仕事ではなく客席にいたオフ乗務員の方々。

私だったら冷静に対処できただろうか・・・と毎年思いながらも、当時の会社の厳しい訓練と教育を受けていたので、私もベストを尽くしたと思う。

同じ航空会社で働いていた一人として、心からの敬意と感謝を捧げます。

乗客の皆さまと、最後まで命を守ろうとされた乗員の皆さま、愛するご家族と突然お別れすることになった509名の御霊が安らかでありますように。

多くの犠牲とご家族の悲しみは、圧力隔壁の修理の改善や整備関係者だけでなく緊急事態の想定訓練などに繋がりました。

強く、勇気ある魂の方々と思っております。

41年目の8月12日。
あの日を決して忘れず、心静かに手を合わせます。

合掌

他に思い出すこと、引っかかる真実の行方

 事故の少し前に世田谷のイタリアンのお店の階段ですれ違った坂本九さんとご家族。その時の微笑みが記憶に強く残っています。1階が駐車場で狭い階段を私たちは降り、ご家族は上がって来られて一瞬すれ違っただけ。しかし、人が持つ魂と微笑みは、リアルに感じたエネルギーとして残り続けます。心からご冥福をお祈り申し上げます。

『上を向いて歩こう』SUKIYAKIソングも長きに渡り、日米の人々に心の微笑みを与え続けています。😊

不可解なこと

 テレビをつけたまま起きていた私は、その夜、「射殺」という言葉を含む、意味の分からない速報を見たように記憶しています。

何か事件が起きたのだろうか。そう思い、翌日も、その翌日も、新聞や週刊誌を買い集めました。

ただ、現在まで、その速報が実際に放送されたことを裏づける当時の映像や放送記録を、私は確認できていません。

事故直後の混乱の中で見た、あくまで私自身の記憶です。事実として断定するものではありません。

41年という年月の中で、人々の小さな記憶や目撃談は、少しずつ消えていきます。インターネット検索で上位に表示される情報が、必ずしも事実のすべてを表しているとは限りません。だからこそ、確認された事実と、一人ひとりが記憶していること。その両方を混同せず、残しておくことにも意味があるのではないかと思っています。

 相模湾に落下した垂直尾翼の大部分は、現在も回収されていません。事故から30年後の2015年、テレビ朝日の民間調査によって、123便の機体の一部とみられる物体が海底で発見されました。ただし、映像だけでは断定できず、現在も123便の残骸とは確認されていません。

 また、FAA(米国連邦航空局)の公式サイトには、ボーイングによる後部圧力隔壁の修理が設計指示どおりに行われず、その結果、隔壁の強度が低下した経緯が詳しく掲載されています。

事故を一つの説明だけで終わらせるのではなく、回収されていない機体や残された資料、小さな証言を一つずつ検証していくこと。それが、ご遺族のためにも、そして未来の航空安全のためにも必要なのではないかと、私は思います。

参考
FAA「Boeing 747-SR100/日本航空123便」公式資料
テレビ朝日「123便の残骸か…相模湾海底で発見」

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